6月の、篭る湿気と上がる気温で地表面には糸遊が立ち上っている。 快適とは程遠い時候にも表情を変えず、一抱えもある藍の花束を手に、青年は路地で人を待っていた。この道を通ることは知っている。故人の愛した花が咲く道を、少女が選んで帰路に着くのを知っている。三月振りに会い見えることに、年甲斐も無く心が浮かれた。 そして、次第に近づく恋しい待ち人の姿に目を細めて魅入る。 「お久しぶりです」 花を横目に愛でながらひっそりと歩む少女を驚かさぬよう、青年は静かに声をかけた。その試みが功を成したのか、少女がゆっくりとした動作で視線を動かす。髪がぱさりと揺らぎ、露わになった白面に青年の鼓動は高まったが、それを抑えつけ、少女へとまた一歩踏み出した。 しかし少女は視線を合わすことなく、青年が近づいた分後ろへ足を引く。そして一つ会釈をすると再び視線を戻して歩き始めてしまう。 青年も、ある程度は予想していた。一年と少し前より、少女の青年に対する態度は頑ななものに変わってしまっていた。青年にとって救いなのはそれが彼に限られたものではなく、異性同性問わずあらゆる交流を絶っているということだ。 少女の横に並ぼうとするが、自然と彼女が歩を緩め距離をとられてしまう。二三その流れを繰り返すと、青年は一つ嘆息し、少女の斜め背後を彼女が望む距離を保って共に行くことにする。 少女の肩で揃えた短い髪が揺れていた。未だ見慣れぬその長さと洋装に、彼女が年若いことを改めて気づかされる。茶屋での彼女は艶やかな芸者化粧を施し、振袖を妖しく靡かせる女であり、守られるべき未成年であることを忘れさせていた。 高校の制服に身を包んだ彼女と、それなりに値の張ったスーツ姿の自分。今はまだ親族関係にあるとはいえ、知らぬ世間が見たらどう思うのか。忌まわしさを禁じえないけれども、あながちそれが間違ってはいないことに自嘲する。年端もいかない小娘にのぼせる滑稽さは承知の上で、それでも諦めきれない。 喉を塞ぐ想いに目を伏せると、腕の中から瑞々しい香りが漂ってきた。今更ながら少女に相応しき花を、未だ青年が抱えて共にいるという珍妙な光景に気づく。 青年は足を早め少女の前に回った。 「どうぞ」 咲き始めた鉄線花の花束を少女に差し出す。彼女の唇が謝絶の言葉を紡ぐ前に、青年はあらかじめ用意しておいた口実を後付する。 少女が断れない言い訳。 「我が叔父上の、仏前にお供えください」 道を遮った青年を迂回しようとしていた少女が、ぴたりと歩みを止める。視線を合わすことはなく、差し出した花束を受け取って、小さく礼を呟いた。軽く花の香を吸い込むと、それを抱えてまた歩き出す。 伏せた長い睫毛と真白い肌、小柄な体に溢れんばかりの鉄線は、青年が想像した以上の美しさがあった。かつての夜は艶やかな赤い肌襦袢が良く似合っていたが、昼の光では花の硬く高貴な藍が彼女の全てを表すようだった。 「車で来ています。送らせてください」 「結構です」 静かな、歌うように滑らかな声。それでいて強い意志をもって少女は青年の申し出を断る。 「電車を使うよりも早く到着しますよ。何もしません」 にべ無い返事も想定のうちとは言え、心は痛む。青年に信用が無いというよりも、操を立てる相手がいるというだけだ。足した言葉はせめてもの意識を向けて欲しいという浅ましい考え。 「若後家が新しい男を連れ込んでいると、私がそう噂されても構わないと?」 少女の言葉に青年は眉を顰めた。17の齢にして自らを後家と称する頑なさに、彼女の忘れえぬ想いが透けている。微かな嫉妬を覚え、青年は知れず声を荒げた。 「口さがない連中など、放っておけばいいでしょう」 「勝手なことをおっしゃらないでください。私の環境も顧みず、自我を押し通そうとなさるのは迷惑です」 青年とは対照的に、少女はいたって冷めた声色を発した。 確かに少女の住まう閑静な、けれど古い町は、若くして嫁ぎ1年と経たず寡婦となった彼女への興味を尽かすことはないだろう。彼女の言い分は間違っていないと青年も理解できる。しかしともすると夫を忘れぬ少女への恨みと、死してなお少女を独占する男への妬みと、ただ共にいたいという恋心がない交ぜになり、彼女の言う自我を貫きたくなるのも事実。 「ご自宅へ、帰ったらどうですか」 気を落ち着かせ、静かに青年は問うた。 「私の自宅はあの家です」 「叔父上亡き後、あの屋敷に貴女一人では不用心です」 少女は口を開くことなく、また青年に目をやることもなく、ただ歩き続ける。 青年は答えを聞けぬことに焦れて、少女の名を呼んだ。 「明里あけさと」 「明里はもういません」 少女がぽつりと、それでも明瞭に言葉を切る。 「ここにはアカリが居るのみです」 ふたとせ前までは花街の奇跡と謳われた半玉、明里であった少女はその名を惜しむことなく、捨て去った。 当時15にも満たない彼女が、何故半玉を成していたのかは分からない。置屋を営む母がいたとてきっかけはあるはずと、何度尋ねても蝶のようにはぐらかされてしまった。違法と知りつつ、座敷に在り続けた奇跡はその客全てを虜にしていた。青年もまた、唯一無二の舞を愛で、歌を愛で、彼女の人となりに身を焦がしていた一人だった。 そんな少女が、たった一人の男のために自ら翅を落とし、袖を絶ち、未練の欠片もない。 今は亡き夫に尽くし続けるという、先のない未来を選択してしまった。 「おかあさんだって心配なさっているはずです」 自分の置屋で出会った娘婿が娘を残して逝ったことは、実母にとっては耐え難いものがあるだろう、と。青年は彼女の凪いだ心を立たせたい一身で言葉を重ねる。 「いいえ。嫁いだ娘に干渉する母ではありません」 「悲しみにくれる愛娘に、情を覚えない親こそ居りませんでしょう」 「母とて夫を亡くした身。募る想いは一人で偲ぶものと承知して居られます」 「では、偲ぶ時を舞で昇華させてはいかかでしょう」 少女明里の舞は半玉にしては異色ともいえる優雅にして艶めかしく、囃子などを挟ませない、魅せるための舞だった。 明里が名を捨てて以降、彼女のような舞を魅せる半玉は何処にもいない。 何より、青年の叔父が妻である少女と過ごした広大な屋敷で、少女がたった一人故人だけを想い、時を過ごしては欲しくなかった。口実に利用するには憚られたが、彼女が一番心を揺らすであろう人物を引き合いに出す。 「貴女の舞を叔父上は好いておられた」 「見るもののない舞など、なんの意味がありましょう」 「僕が見ます。見たいです。明里の舞が」 青年が熱の篭った言葉を募らせても、少女の表情はひとたりとも変化することはない。 「明里は居りませぬ。アカリの舞はあの人居ずして舞えません」 もう、返せる言葉が見つからなかった。 かつて降臨した夜の舞姫は、いともたやすく夢幻を造る。 誰もが執着したそれに、彼女は塵ほどの未練も残さない。 「貴方はさきほど久しぶりとおっしゃいましたけれど」 言葉を失った青年に気を止めることも無く、彼女がくすりと笑う。紅を引かずとも紅い唇が弧を描く。 「私は何度も夢で拝見しておりますの」 きっと自分の望む形ではないだろうと、容易に想像がつく。それにも関わらず、青年は心が浮き立つのを感じた。彼女が自分を夢に見る。それだけで血が沸騰する。こんなにも少女の一言一句に踊らされて。 青年の想いなど欠片も慮ることなく、少女はなおも微笑みながら続けた。 「そう、長雨の続く今頃でした。貴方様のスーツも色濃く濡れてしまって。私が手ぬぐいをお渡ししたら受け取っていただけませんでしたわね。主賓は自分ではないからと、ご自分のタオルでお済ませになられた。あの夜の貴方はとても饒舌でした。いつもよりずっと。私の拙い質問にも必ず答えてくださって、本当に嬉しかったのです。だって」 ───貴方があの人のことを沢山教えてくださったのですもの。 視線を遠く、失われた時間に陶然と向ける様は青年を絶望へ導くと共に、ただ儘ならない苛立ちを募らせた。 少女の視界に彼の姿は欠片もないのだろう。 彼女を茶屋で見かけ、一目で夢中になった。通って尽くして、心を捧げた。幻惑のように甘く密やかに息づく彼女は美しく、その様を、自分が尊敬する叔父に見せたかっただけだった。あの、雨の夜。 二人が戀に落ちるとも思わず。 「僕は悔いてますよ。貴女の元に叔父上を招いたことを」 「私は感謝しておりますわ。私の元にあの人を遣わせてくださったことを」 「叔父上は貴女が喪に臥し続けることを望んではいません」 真に叔父上を想われるのであれば人と触れ合うべきです───青年は静かにそう諭した。これを告げれば少女は傷つくだろうと、そう思っていた。けれどもそれは彼女の夫の望みであり、青年だけに語られた遺言。 絶望の淵から微動だにしない少女を引き上げるには、それを伝えるしかないと思った。 「まあ」 彼女は青年の予想とは裏腹に酷く明るく、芝居がかったように驚いてみせると、瞳を丸くしたまま彼を振り返った。 そして、初めて青年に目を合わせる。苛烈に変わったそれを。 「私を気遣う振りをしながら私の拒絶を聞き流す貴方が、どうしてそれをおっしゃるのですか?」 風が、ザザァァァと吹きつけてきた。 荒れて乱れる髪を抑えることもせず、射る様な視線を送り続ける少女を、青年は真正面から受ける。 拒絶、と彼女ははっきりと言った。 断固たる拒絶。 一度もこちらを見ようともしなかった少女が、青年が決して望まない眼差しで捉えてくる。 青年は自分の思い違いに気づいた。繊細かと、包むように接してきた彼女の瞳の奥に揺らいだのは、もういない夫への。 あらゆる感情を篭らせた寡婦は───絶望すらも甘い愛へと紡いでいた。 風は唐突に止んだ。 ふいっと、少女は気まぐれな猫のように視線を外す。竦められていた青年は安堵すら感じてしまう。そんな様子には興味も無いだろう。少女がこちらを窺うことはなくなった。 それに、と彼女はこちらも見ずに、楽しそうに言う。 「先に約束を破られたのはあの人のほうです。私が聞かねばならぬ道理はございませんでしょう」 歌っているかの如く紡がれた言葉は、子供の我侭のようで。ふふふっと得意げに笑う彼女の先には、亡き夫に駄々をこねる自分の姿があるのかもしれない。二人を別つまで、少女にとってはあまりに短すぎた誓い。 少女の想いを知った。その強さを知った。 自分の想いは、彼女には伝わらない。 昇華されない想いが胸を走る。 虚勢と思われてもせめて一言と、青年は口を開く。 「僕は、貴女の夢はみません」 少女は一瞬目を眇めて、その先を遮るように歩みを早める。青年はさして苦労もせずその真横に並び、彼女が聞きたくないであろう言葉を続ける。 「貴女を想う夜は、眠れるわけがありません」 古い戀の唄をなぞらえて、想いを伝える。 それが分かっただろう彼女は、それでも顔色一つ変えず。また彼を見ることもせず、細い足を止めることもない。 暫しの沈黙の後、野鳥の澄み渡った声が響いたのをきっかけにしたように、少女は髪を揺らして青年の求愛を一蹴する。 「言葉にするほど野暮なことはありませんわ」 「言葉にせねば、伝わりませんでしょう」 「残念ながら」 垣根に降り立った先の野鳥を見やって、少女が続ける。 「私は言葉にせずともあの人の想いを知りました。 あの人も、そう。 言葉なくとも通じる世界を知った今では───」 ───囀りすらも野暮な様、と。 少女は野鳥を、静かに睥睨した。 暫くすると道が開け、二人と野鳥のみの空間は元から無いかのように霧散される。 混雑する駅前までくると、少女は今まで隣にいたことが不思議なほどにするりするりと人込みに埋没していった。青年が慌てて追おうとするが、すでに声すら届かぬ距離ができてしまう。それはまるで二人の心の隔たりのようで、青年は行き交う人々に当たられながら呆然と立ち尽くす。 すると、彼のことなど忘れたかのように背を向けていた少女がゆったりと振り返った。 再び、視線が交わる。 音が掻き消え、少女と青年だけの世界が広がった。 どれほどの時間が経っただろうか。少女が先に目を伏せた。 そして深く、深く一礼すると、きびすを返し、雑踏へと紛れていった。 少女はもう見えない。 残された青年は幻のような痛みに、胸を抑える。眉根を寄せて瞳を閉じ、塞ぎが晴れるのを待つ。 この身の、戀を少女に─── 言葉を尽くしても伝わらないと。 それでもただいつの日か、少女の嘆きが尽きることを切に祈る。 もう疾うの昔に覚悟はできている。 彼女が嫁いだその日から、諦め切れぬと諦めた。 青年はもう一度すでに消えた少女に目を遣ると、二人歩いた道を引き返した。 了
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