JOKER



 春休みを明日からに控えているにもかかわらず、あたしはかび臭い防音の部屋で教師と二人、ごみを選別している。
 超めんどくさい。
 優等生で通ってるあたしがそんなことを考えているなど露知らず、ごみパートナーである歴史教師の伊藤が次に整理するダンボールを持ってきた。
 スチール本棚やら、ダンボールの山やら使ってないベニヤ板やらに囲まれたこの部屋は、蛍光灯の光さえ十分に照らせないほど物に溢れている。
 それでも、この高校で美青年と名高い伊藤は、薄暗くてなお目を引く細く長い首が過剰な色気を放っているし、伏せた睫でできた影はむかつくほど艶っぽい。
 こんな奴と今日だけでも二人きりなのかと思うとぞっとした。

 あたしはこの教師が苦手だ。基本的に優男。女子生徒には優しく、男子生徒は足蹴にする。それでいて男女隔てなく人気がある。
 今年のバレンタインのチョコレート持ち込みはこの男のせいで禁止された。あまりに女子生徒に好意を持たれ過ぎる為、教師と生徒間で間違いが起こるのを危惧してのことだ。

 今の時勢、教師の猥褻事件やそれに対しての社会的制裁の厳しさは誰でも知っている。たとえそれが合意のことであっても、教師は勿論、相手となった生徒に対してもリスクは大きい。
 教師ならば職の喪失であったり、仮に生徒の在学中はなにもなくても(ばれなくても)、元生徒と後に結婚したところで、「あの先生、元生徒に手をつけたらしいよ」なんて囁かれた挙句、前科持ちとして定年まで異性生徒との交流を監視されるに違いない。
 生徒の方だってヘタすりゃ退学。残っても全校生徒の噂の的。例え結婚しても同窓会のたびに「どうなってんの?」とか、酒がすすめば「先生と夜の個人授業ですか?」なんて話に絶対なるはず。あたしなら聞く。
 教師も生徒も一生下賎な噂話の餌になるだろう。
 でも、そんなことはもう皆分かっていることだ。
 学校という箱庭で、若い先生が素敵に見えても所詮は幻想。外をみればもっとグレードの高い異性は五万といる。リスキーなことは今後の人生のためにも避けるべきだと分かっているはずなのだ。
 だから、本気チョコレートなんて教師相手に渡すはず無い、と思ってた。
 けれどあたしの想像なんかよりずっと。

 この教師に本気の子は多いらしい。



 2ヶ月前、1月の終わり。
 怪我や体調不良からメンタルケアまで行う養護教諭が、その守秘義務を差し置いてまで校長に進言した。
 氏名こそ公表しなかったが、伊藤に対して禁断の片思いを抱き、10代のみずみずしい肌を涙で濡らして苦悩する女子生徒は優に両手を超えるらしい。
 その話は生徒会も交えた教師達の定例会議で問題提議された。
 あたしは生徒会書記の任にあるので、その会議には勿論出席していたし、案件、提案と決定事項ならびにその発言者氏名を議事録に記入しなければならない。
 養護教諭はどんなにこの教師がもてるのか、どんなに女子生徒達が本気なのかについて切々と訴えていた。
 その教諭曰く──
 たとえ伊藤に答える気はなくとも(気があったら大変だ)、生徒側に恋を成就させれるかもしれない可能性を想像させてしまう事は危険だ。後々伊藤に拒絶されたときに深い心の傷を残すだろうと。また、自分に相談してくる生徒はまだ常識的な、成就させてはいけない恋だ、という認識があるが、保健室に来ない、また教師と生徒の関係から一線を踏み越えることに躊躇のない生徒はさらに多いだろうと。
 それはそれは気鬱な声で告げる。ため息も一つ。

 あたしはその間、養護教諭の発言を要約しながらずっと、養護教諭とその隣に座る件の教師を見ていた。

 この状況、つるし上げといっても過言ではないだろう。校長を始め、学校関係者が一番避けたいのは教師のスキャンダルだ。可能性の芽は一つ残らず除草しなければいけないのが教育現場なのだ。
 教師に否は無くとも、原因はすべてそこにあるから教師が悪い。そういう状況だ。
 なのに。
 あいつは完全に我関せずだった。
 かしこまる訳でもなく、恐縮するわけでもなく。養護教諭がどれだけ女子生徒達の本気の恋を語っても、眉一つ動かすことなく。ただ頬杖をついてそこにいただけだった。 その様はまるで人事という態度で。

 あたしは他人の本気に、本気で答えない人間は大嫌いだ。

 勝手に熱を上げるのは彼女達の勝手だろう。勝手に恋して勝手に悩んで勝手に相談して勝手に被害者にさせられている。
 それでも、向けられた情に対して思うことは無いのか。感じ入ることは無いのか。身を振り返ってできることはないのか。
 こんなに、心の矛先をなかったことにされてしまったら。
 彼女達の情の行き場はどこにあるのだ。
 顔には出さない程度の知恵はあるが、あたしの心は憤懣やるかたない。

「伊藤先生は女子生徒に対して優しすぎるという話を聞いたことがありますが」
 教頭がさもうんざりだといった態度を隠さずに発言した。
 噂じゃない。事実だよ。
「ご自分から生徒に対して不適切な接し方をしているんじゃないですか?いままで先生の受け持った生徒達の点数が上がっていたから許容しておりましたが、ことが起これば責任は我々にあるんですよ」
 えらそうな口調に腹が立つ。
 あたしは自分の保身しか考えない口臭教頭も虫唾が走るほど嫌いだ。
 そのときあたしの隣にいた生徒会副会長が、生徒側としては初めて言葉を発した。
「伊藤先生は確かに女子生徒に優しいですし、男子生徒には手厳しいものがあります」
 けど、と続ける。
「けれど、先生がそのように接してくださるお陰で、生徒は質問がしやすい、相互コミュニケーションが可能な授業が成り立っています。女子生徒には女子生徒なりの、男子生徒には男子生徒なりの声の掛けやすい人格を作っているのでしょう。成績も上がるはずです。生徒も敬意を持って、先生の授業を受けていると感じます」
 認めるのは悔しいが、副会長の意見は正しいだろう。
 あたしは伊藤が大嫌いだけれど、授業は分かりやすいし、躓くようなことがあっても、それを伝えやすい関係を保っている。
 歴史という、ともすれば教科書をただ読むだけになってしまいそうな暗記系教科も、彼の授業では人物が、事象がその時代に生きていた息吹を感じさせる。
 社会的背景と、人物考証、当時の思想傾向が詳細に分かると、隣で起こっているような親しみを覚えるのだ。  彼の授業の影響で社会科専攻を目指す生徒も増えたと聞く。
 それでもそんなに褒め称えることないじゃない?
 勉強に興味を持たすのは教師の仕事でしょ。
 たとえ、それができる教師が少数であっても。
 そう思っていると、やっぱり自分第一の教頭が反論する。
「その生徒との馴れ合い主義が、勘違いさせる女子生徒を増やすのではないか」
「それはないですよ」
「ないですね」
「ないと思います」
 三人分の教頭を否定する声が聞こえた。あたし以外の生徒会役員全員だ。
 会長、副会長、普段無口な会計までが互いに顔を見合わせた。
 目で会話でもしたのか会長が代表して、口を開く。
「伊藤先生は勘違いなど絶対にさせません。先生に個人的に近づこうと思っても、決して踏み越えさせるようなことはされないはずです。僕達生徒なら誰でも感じれることです」
 会長は教頭だけではなく、全教師の顔を見渡しながら、優男教師伊藤を庇う。
 庇う、というのは違うかもしれない。
 伊藤が決して生徒に手をださないだろうというのは、生徒全員が感じることだ。
 絶対にプライベートは語らない。個人的な質問はさらりと流し、話を逸らす。そののらりくらりとした態度とは裏腹に、授業では真摯に真剣に学問を理解させようとする姿勢はある。
 あくまでも自分は教師であり、教える人間として円滑なコミュニケーションを図る努力はするが、その他は受け付けないという空気がありありと伝わるのだ。
 だからといって、いま保健室に駆け込み相談している女子生徒達がどうなる訳でもなく。会長達も必要以上の非難を伊藤から逸らそうとしただけで、養護教諭の提案するバレンタイン禁止案にはおおむね賛成らしい。

 結局その日は、チョコ禁止令と、もしものために当日伊藤が病欠することが決定された。

 けれどその瞬間でさえぼんやり外を見ていた伊藤に───
 いつかぶっとばす、とあたしは心に決めた。



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