02 部屋を出ると廊下はとても薄暗かった。そして隙間風が半端ない。 来たときも思ったけれどサークル棟の古さは異様だ。窓はがたついて、頭上では切れかかった蛍光灯が羽虫のように鳴っている。けれどその微かな光すらも長い廊下の片端に一本しかなく、あたしたちは明かりの側にある部室から明かりのついていない逆の廊下の階段まで慎重に歩いていく。 「ちょっと、廊下暗くない?電気ないの?」 先ほどいた空間とのあまりに様相が違うため、赤くなった顔もちょっと気まずい空気もあっさりと消えて、ただ歩くことに集中した。足元に電気の基盤やら、漫画雑誌やらが大量に放置されていて、この闇では踏みつけそうになる。 「なんか環境保護とかいって、蛍光灯はずされたらしいよ」 「やりすぎじゃない?これだと人間が保護されなくない?」 「俺もそう思う。あと階段には全部ない」 「危なすぎるじゃん。それも環境対策なの?」 「電研が何かに使うって持っていてそのまま壊したんだって」 今井もサークル所属でないので伝聞に過ぎない。 実際に階段まで着くと、鳥目気味のあたしはあまりの暗さに眉を寄せる。今井とたまに行く映画館でも照明が暗いとすぐに足を取られて、手を貸されるほど見えにくくなる。それなのにこの階段。転べと言っているのか。電気研究会許すまじだよ。 「暗くて危ないから、俺先下りるし。肩つかまってな」 今井が一段先に降りて、その肩にあたしの手が届きやすいようにしてくれる。今井は無駄に背が高い。なので、段差の上にいてもあたしの身長は今井の目線までも届かない。 「ありがと。ゆっくりにしてね」 「うん」 「あ、あと絶対に揺れないで!マジ揺れないで!!」 「……善処する」 頼むから断言してよ、と思ったが今井の努力でどうなるものでもないのだろう。なるのならとうの昔に対処していて欲しい。 あたしは言われたとおり、今井の肩に片手をかけ、今井が一段降りるとあたしも一段という感じでゆっくり歩を進める。 階段は本当に暗黒だった。各階までいくと逆端にある明かりが微かに感じられるけれど、階中間の踊り場付近では目の前の今井の頭すら闇に溶けそうだ。 二階半ばまで降りたとき、多分気のせいで、何も無いのは判っているんだけど、やけに背中がそぞろ寒くなってきた。理性とは別のところで鳥肌が立ってきて、一度意識した恐怖はなかなか拭えない。あたしはなけなしの勇気で後ろをちら見したけれど、闇に包まれた階段と僅か過ぎるほどの明かりだけでやはり何も無い。心なしか背負っているリュックまで重みを増した気がする。 「今井、ちょっと、止まって、くれない?」 自分の掠れた声が天井に響く。喉に少し絡まってしまった。 あたしは怪談とかホラーが本当に苦手なのだ。 「ん、どうした?なんか忘れ物した?」 「ああ、あの、別になんだけど、先に歩かせてくれない?」 「先に?」 「うん。先に階段下りたいかな…って……」 「なんで?お前鳥目じゃん」 いっつも暗いと足元怪しくなるじゃん、と続けられてあたしはぐうの音もでない。 それでも素直に怖いって言えない。いや、言ってもいいんだろうけど。それってお化け屋敷きゃーこわいっていうのと変わらなくないか。乙女過ぎる。 「いいから。いいから!先降りさせて。ちょっとどいて」 狭い階段なので、大荷物のあたしは今井が避けてくれないと体が通らない。 「───だっこ、する?」 「へ?」 「だっこして降りれば怖くないんじゃん?」 「こ、怖いなんて言ってない!」 今井がいつもより近い角度であたしを見下ろしながら小首を傾げている。こっちが怯えていることを微塵も疑ってない様子だ。ばれてた。だったらなおさら怖いなんていえない。そんなことうっかり洩らせば、有無を言わさず抱き上げられるだろう。今井はそういう男だ。こっちの躊躇をハイジャンプで超えてくる。今井のクセに。 それに、だっこって……一度もされたことないのに、こんなところでされてる訳にはいかない。恥ずかしいっつうの。 怖くなんか無い、とあたしはもう一度念を押す。 「それに!落ちるの想像したほうが怖い!!」 言い放ってから、語るに落ちてるじゃん、とへこんだ。怖いって白状してる。 「でもさあ」 「でもじゃないの!あ、何か話しようよ。それなら大丈夫だから」 ね、ね、と今井をしっかり見上げて説得する。 友達期間もあわせて一年以上付き合いのある今井はあたしが強情なのを知っている。これ以上言っても無駄だと判ったのか今井は呆れたように、でも糸目を緩めてるんだろうなっていう声で、しょうがないなあ、と呟く。 「もうちょっとだから我慢してな」 今井の大きな手が持ち上がって、あたしの頭をぽむぽむとたたく。そのあと前髪を軽くかき上げる動作を繰り返す。何度も何度も。 でこっぱちと称されるあたしの額を全開にさせるようにまた、何度も何度も。 何度も何度も何度も。 ………なんなんだこれ? 「なにしてんの、いまい───」 ふにゃ、と感触があった。 「ぎ……」 口から濁音がこぼれた。前髪から今井の手が離れて、ぱさりと額を隠す。 今井の、多分、くちびるが触れた、おでこ。 「…なん、ですか」 ぎゃあ、と叫びだしそうなところを押さえ、ゆるゆると息を吐き出しながら訊く。なんで今?そんな雰囲気だった?全然判らない。今井何考えてんのよ。 しかもおでことは。 「ユーキの出るおまじない」 「はあ?」 「怖くなくなるおまじない。もうちっとだからがんばってな」 そして頭をぽむぽむ。 なあんだ、と思う。 なあんだ。 子供扱いって訳ですかい。 折り悪く、あたしが暗い踊り場側、今井は二階から漏れる明かりを背にこちらを向いていて逆光状態。今井がどんな表情をしてそれを成したのか、全く判らなかった。 ちくしょう今井。あたしの動揺を返せ。おまじないってなんなんだよ。バカ今井。 思いつく限りの罵詈雑言を並べて、今井を毒づいてやる。心の中で。口に出したら、なんだがっかりしたっていう微かな気持ちが伝わっちゃうかもしれないからやってらんない。 ユーキのでるおまじないの効果なのかはともかく、恐怖はきれいに消え去って、気がついたら一階まで到着していた。ちくしょう今井のくせに。 模様ガラスが嵌め込まれている古くて重い鉄の扉にたどり着く。 それの向こうには外灯に照らされた、夜だけど暗闇じゃない世界があるだろう。 早く開けやがれと思っていると、今井がくるっとあたしを振り返って、段差がなくなったいつもの身長差のある距離でへらりと笑う。明かり窓から差し込む淡い光でそれが判った。 手を上げたと思ったら、また頭をぽむぽむされた。 「到着おめでとー。頑張ったじゃん」 「……バカにしてんの?」 さっきのおまじないといい、大人に対してやるもんじゃないだろーが。頭は叩くものじゃないんだバカ。 胡乱な眼差しを向けて手を払ってやると、まさかあ、と温い返事が来る。 「嘘つけ。子供扱いしてるくせに」 もー行くよ、と今井の横をすり抜けて先に出ようとすると、腕をくっと引かれる。 「なあにー?時間が……」 時間がないんだってば、と続けようとしたけれど途中で言えなくなった。 「───子供扱い、してないよ?」 突然、耳のすぐ後ろから聞こえた声にどきりとする。 低い、静かなトーンで囁く今井の言葉。 背筋にぞくぞくっと何かが駆け上がる。 振り返る前に後ろから今井の腕に包まれた。ふわりと柔らかく壊れ物のように。 胸の前に緩く手がまわされる。 右頬に、今井の髪が触れた。 肩にはぬくもりと重み。多分、今井の頭が乗っている。 あたしは息を吐くことも吸うこともできずに硬直する。こんなに近寄ったのは初めてだ。今井に抱きしめられている。 なんだか良くわからないけど、目が熱くなって泣きそうになった。 どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。 ────どうしよう。 ガタンッ。 「ひっ!」 目の前の外扉が大きく鳴った。そのあともガタガタと小刻みに揺れる。突風かなんかが吹いたのか。ひとしきり叩きつけられる様な音が続く。 そして、暫くしてからそれが終わると、ただ静寂が訪れてしまった。 かろうじて抱きしめられてはいたけれど、肩にあった今井の頭はもうない。あたしも相当驚いたが、今井もだろう。 心臓が、止まるかと思った。いろんな意味で。 なんだか恐怖が一気にこみ上げたせいで生理的な涙も滲んできた。 「……びっくりしたな」 今井が長く緩く息を吐きながら、しみじみと言う。そして振り切るように声を張る。 「あーびっくりした!俺一瞬心臓止まったよマジで!絶対死んでたな!!」 空元気に聞こえるのは気のせいじゃないはず。そして死んではいない。 そう心の中で突っ込みをいれたけれど、そのあとにぎゅーと強く抱きしめられて、あたしが死にそうになる。涙もひゅっと引っ込んだ。 「あー滅茶苦茶びっくりした!なんにもなくて良かった!」 ぎゅーぎゅー絞められる。耳の側にまた今井の髪が触れていた。胸から胴にかけてまわされた腕の力で、あたしは爪先立ちになっている。なにがなんだかこの一連の流れはなんだったんだ。なんなんだ今井。 あたしの心臓はもう訳判らないことになっていて、口から飛び出しそうなぐらい鼓動が激しい。今井にも伝わっているに違いない。 「ちょっ…今井離して、浮いてる、から。足、浮いちゃってるから!」 心臓の音を蹴散らして、声を絞り出す。痛くなんかないけど、これ以上このままだったら確実に胸が破れちゃいそうだ。 「んー」 今井がくぐもった声をだして、抱きしめるのをやめないまま、あたしを下ろす。ああ、言い方が悪かった。手を離してって言わなければならなかったのに。耳の奥まで心臓が響いてる。口から臓器出ちゃうってば。 「い、今井」 「…………」 「離して、くだ、さい」 「……んー」 「うっ動けない、でしょ?」 「……んー」 「時間が、ないから。離して……帰らなく、ちゃ」 「………………わかった」 漸く日本語が通じてくれた。文系のくせに理解が遅いんだこいつは。 拘束されていた腕が緩んだので、あたしはほっとした…のも束の間。また強くぎゅーと抱かれる。 「ぎゃあ!離せ離せバカ今井!」 「最後一回だけ」 そして今井はもういちどぎゅっと抱きしめてきて、うわっと思うまもなくその勢いのままにあたしを解放する。 肩と頬と腕と胸のところから今井の温度があっさり消えて、扉からの隙間風がやけに寒く感じた。 バカなあたしは自分が離せって言っていたのに、今井がいなくなるとその熱が欲しくなった。まだ落ち着きのない胸の奥に少しばかりの空洞を感じる。さっさと手を伸ばして扉を開ければ、こんなのすぐ消えるのに動けなくなる。 「…めっちゃびっくりしたな」 この空気をさらうように、少し笑いながら今井が言った。 消えていく甘やかな時間に手を伸ばしそうになりながらも、あたしは今井の軽口に乗っかる。 「ほんと!やっぱり古い建物は怖いわ。びっくりしちゃった」 えへへ、とあたしもきごちなく笑った。 そのまま、このいつもどおりの雰囲気を装って扉に手をかける。なかったこと、とは言いたくないけれど、今はこの甘さを引きずってはいけない。 素材自体の重さと、外からの風圧でさらに重量感を増した扉に体重をかけて開けようとすると、今井がそれを遮る様に肩に手を置いてきた。 「あー」 「……なに?」 なんとも間が抜けた感じの声に、訝しんでしまう。 今井が自分の頭をがしがしと乱して、ひとしきり乱して、あのー、ともう一度口を開く。 「あのー。怖いのよく頑張ったで賞を、授与、します」 変な棒読みで今井が言った。 そして、ふにゃ、の感触が再び。 今度は─────────ほっぺたに。 なんだかあたしは呆気にとられてしまって、離れていく今井の顔をぼんやり見つめて、そのくちびるが触れた頬に手を当てる。今井はというと、へへっとしてやったりの声で笑った。 「んじゃ、行こっか」 今井が手を伸ばして扉を開ける。冷たい風を受けると見慣れた木々が鮮明に見えた。そこはやっぱり夜だけど闇なんかまるでない光に満ちている。 思わず目を細めてしまう。眩しいくらいに、暗闇に戻りたくなるくらいに、ここは現実で。 けれど、闇の中では見えなかったものが見えてきた。 例えば、さっきかきむしっていたせいでまだ乱れたままの今井の前髪だったり。 得意気に見えたその表情が実は切なそうに眉を寄せられていたこととかも、はっきりと。 きっと、あたしの泣きだす寸前の顔も見られているだろう。 子供扱いなんてされてなかった。 あたしたちは、これで精一杯なんだ。今はまだ。 少しの触れあいでも好きで好きで好きで、これ以上は心臓が追いつけない。 大学構内だけど、今井の手を取った。あたしからぎゅっと握った。今井も握り返してきた。 時間がないから急がなくちゃならないけれど、甘い雰囲気を引きずらないで帰らなければならないけれど。 あたしたちはまだ光の下でお互いの顔を見ていないと判らないことだらけなのだけれど。 駅に近づくにつれて、別れが近づくにつれて灯のふえる世界に。 ひどく闇に焦がれてしまった。 |
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