入梅の雨に打たれ、がたがたと揺れるすり硝子を横目に、仁科は筆を置いた。
 今日は古くからの知人で画商を営む篠田雅人が訪れる。気分が乗っているときに中断されるのは不愉快極まりない。
 ──気が逸れた今止めておくのがいいだろう。
 仁科は二つ目のアトリエとして使っている洋間を出て施錠をする。ここは誰にも入室許可は出さない。雅人だけではなく、春子を描く際もこのアトリエには招かない。
 仄暗い廊下で長い息を吐いた。



02 side Nishina



 和洋折衷と言えば聞こえはいいが、仁科にとってはただ統一感がないだけの邸の格子戸が叩かれた。
 億劫ながら玄関まで迎えに出ると、ゴウッと強い風雨に軋みながら戸が開き、濡れ鼠となった三十代半ばの男が入ってくる。
「俺だ。入るぞ」
 その姿に眉を顰め、持っていたタオルを侵入者である雅人に投げつけて仁科はきびすを返す。
「それ使って。部屋濡らしたら掃除していって」
「ああ、助かる。外は凄いぞ。台風並みだ」
 雅人を置いて、台所へ向かう。薬缶に火をかけ湯を用意し、この家で唯一まともに飲めるほうじ茶を入れる。そういえば、この茶葉は春子が好きだと言ったので切らさないようにしているのだと気づいた。湯呑みも春子専用のものがある。それは雅人には出さない。春子が居らずともこの邸の一階は彼女の気配を存分に残していて空可笑しくなった。

 時間をかけて抽出を終え、対でない湯呑みを二つ持って居間へ向かうと、雅人が豪快に全身を拭いながらソファに凭れている。幾ら骨董品だからとはいえ買い直すつもりはないというのに、気を使う繊細さは持ち合わせていないらしい。
 仁科は無言で湯呑みを差し出し、向かいの一人掛けソファに座る。
「……飲めるやつか?これ」
「飲まなくてもいいよ」
 冷ややかに言い放ってやると、雅人が慌てたように茶を啜る。
 以前は、まず賞味期限が保持されているものはなかったことを覚えているのだろう。しかしそれも一年近く前の話だ。信じがたいのならば、招かれざる客に強制するつもりはない。
「あ、うまいな」
 ほう、と息をつく男を見ていると、この邸の静寂を乱すだけの存在に苛立ちが増す。
「用がないなら帰ってくれないかな?」
 今日の訪問でさえ、前日に連絡してきた男だ。ここ3度ほど留守番電話も無視していた。久方ぶりに受けたのはこれ以上拒絶すると邸に乗り込まれる恐れがあったために、承諾せざるを得なかっただけだ。
「注文の絵は送っただろう。今は売れる絵はないよ」
 仁科の、画家として描いた絵の全ては雅人を経由して売りに出されている。個展は開かない。買い手は存分にいる上、金にも困っていない。また、仁科自身が公の場に出ることを望んでいないことが最大の理由だ。絵を描いたら雅人に連絡する、ないしは仁科の絵を所望するコレクターがいたら雅人から連絡が入ることになっている。
 仁科は自分の作品が手元から離れていくことに不満はない。職業画家としては当たり前であると思っている。人手に渡った自分の作品がどのように扱われようとも、二度と市場に出回ることがなかろうとも、仁科の関心すべきところではなかった。
「何も描いてないのか?」
 前回仁科が絵を送付してから幾分か経っていた。それでいて、作品がないというのが雅人には疑問のようだ。
「描いてはいるけど。売るつもりはないよ」
 手をつけているのは春子の絵だ。それらを絵を売るつもりはない。今までもこれからも未来永劫に。けれど仁科の返答に雅人の顔が高揚していく様が目に入る。
「彼女の新作、か?」
「うん。…………見たいの?」
 力強く上下する男の頭を呆れ半分で見つめる。雅人は彼女の熱心な信者だ。居間で描いていた1作目を突然訪問された際に見られてから、それはもう盲目といってもいいほどの入れ込んでいる。春子本人には会わせたことはないが、それを不満には思ってようだ。
 雅人は完全な絵に取り憑かれた病人だ。創作を介してのみ人の本質を見ようとする。それでいて自分では描けないので厄介だろう。雅人が焦がれる彼女の姿は、雅人の肉眼では見えないのを知っている。仁科の瞳を通してからではないと、雅人の望む姿が写らないのを理解している。
 彼女自身に害が及ばない、これ以上無い安全な男だ。絵の少しぐらい見せても構わない。
「上だから、来て」
 重い腰を上げて、邸二階にある一つ目のアトリエに案内した。



 曇り硝子の嵌め込まれた無施錠の戸を開けると、一階ではあまり感じない油剤の香りが立ち込める。一昨日に庭で春子を目前に描いた後に持ち運び、乾燥のためイーゼルに放置された絵が中央にあるだけだ。仁科がそれを指差してやると、雅人が食い入る様に凝視する。
 雑然とした庭の片隅に咲いた紫陽花と春子の姿。彼女が映える浴衣も用意した。綿絽白地に藍で同じ紫陽花の葉紋をあしらったそれは、春子のもつ硬質で凛とした佇まいに好く合っていた。
「いいなあ、このシリーズ。これが十作目だよな?」
「うん」
「ああいいなあ。女になる前の中性的な潔癖さが生きてるよ」
 陳腐な賞賛ながら目を細めて眺めている姿で、この男に出来る最高の賞賛なのだろうと判った。仁科以外の作品への審美眼は認めてやるが、ボキャブラリーが拙いため商売人としては未熟に感じる。
「去年の夏から始まって、ようやく一年か」
 春子を描いたものは仕舞い込まずに全てが表に見えるよう配置している。雅人が第一作の、夏の制服姿を描いた春子から順に視線を送り、そのたびに構図が良いだの色が良いだの表情が良いだのと賛美を繰り返す。

 一年、春子を描いた。
 今取り掛かっている作品を終える頃には丁度出会った頃の季節が巡る。

 仁科もまた自ら描いた春子像に目を向ける。  このシリーズは春子を前にしない限りは筆を取らないと決めていた。実際、こちらのアトリエで描くものは春子以外の、主に商用の絵に限られている。
 瞼を閉じずとも、出会ってからの春子が鮮明に思い出される。公園で、さもつまらなそうに芝生に寝転んでいた姿。
 春子は変わらない。変わっていない。未だ人に対しては過敏なほど内面を探り、道化のように媚を売って壁を作っているようだ。初めて会ったときと同じようにに、独りでは感情を削いで過ごしているのだろう。
 しいて挙げるのならば、仁科といる時間にも一切の守りを解き、独りで居るかの如く邸に在るようになったこと程度か。
 仁科にも変化はない。一年前から一分たりとも。経て変わったものは邸の庭を彩る季節と、その色の数だけ増えていった変わらない春子像だけだ。
 それももう、今季で最後になる。
 待ち遠しくて仕様が無い。その瞬間に焦がれ、急いては我を取り戻し筆を休めることも間々あった。創作の質を落とさぬ様、と言い聞かせるものの結局は感情を煽るだけの演出に過ぎない。その時への歓びをただひたすらに高めるだけの自虐なのだ。
「今描いているのはこれだけか?」
「いや……あと一枚描いて」
「彼女のか?!」
 雅人の目が爛々と輝いていた。それを見た瞬間に口を衝いた言葉を悔いた。完成間近の、その絵のことを考えていたら一時この招かれざる客を意識の外にしてしまった。
 ただ、口苦い後悔と共に期待に満ちたこの目を見たら、ほんの少しの好奇心も芽生える。

 あれを見せたらどうなるだろう、と。

 暫し逡巡のため返事をしないでいると、雅人がその頭を掻き毟りながらアトリエ内を見回す。
「ここにはないのか?是非見せてくれよ」
 そう言いながら決して広くないアトリエ内を彷徨くように往復し、画材やモチーフを退け始めた。仁科はその焦燥感滾る様子を冷静に見る。そして唐突に哀れに思い、笑い出しそうになるのを抑えた。
 可笑しくて堪らなかった。
 この、絵でしか感情を満たせない男が、仁科の描いた春子に入れ込む男が。
 最後となるあの絵を目にしたら。


 ───どれだけ無様に許しを請うのだろうか。


 止まない雨音など。
 仁科の虚には到底響くはずもなかった。




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