ここ連日、友人が訊いてみろとあまりにもしつこく絡んでくる。この古い邸を包む静けさを裂くのは気が滅入るが、忘れてしまう前に尋ねておこうと思った。
「仁科さんは私に惚れていますか?」
「君は惚れられてると思うの?」
 彼は突然の質問に驚く様子もなく、いつも通りの悠然とした調子で返事をしてくる。
 回答にはなっていなかったけれど。



01 side Haru



「質問に質問で返すのは良くないですよ」
 明確な答えがもらえなかったので取り合えず正論を口にする。けれど、相手に逸らかすつもりはないのが感じられるので、特段気分を害してはいない。
 春子は俯きがちの姿勢を固定したまま目線だけ動かしたが、その目的である仁科の表情はイーゼルが邪魔になり見えなかった。春子が美術の授業で絵を描いた際には、イーゼルと対象が同時視界に入るようにと教師に指示された。しかし仁科はそうしない。こちらを観察する時だけ白い四角の影からゆるりと顔を覗かせる。
 今は筆を動かす手も止まる気配がない。
 だって判ってるでしょう、と四角の向こうから笑い混じりの声が聞こえる。
 手を伸ばしても届く距離ではなく、そして特別張り上げた音量でもない。それでもこの邸の周りが静寂に包まれているため、微かな呟きすら共有できてしまう。
 確かに春子には判っていた。判ってはいるけれど、自分が正しいという言質を確認しておきたかった。
「それで、惚れていますか?」
「惚れてないよ」
 今度はちゃんと回答される。結局は春子の想像通りだった。
 仁科は春子に惚れてなどいない。
 彼の、一人暮らしの古い邸で、二人だけの時間を過ごしていたとしても。
 春子はそこで自宅のように寛いだり、居眠りしたり、時折動きを止めさせられる。
 彼に請われて。
 仁科は画家で春子は対象物。
 公園で出会い、アルバイトを依頼されて、もう三ヶ月が経つ。


 そうですよね、と春子もまたのんびりと相槌を打つ。視線を生垣から落ちた満天星躑躅の葉に戻した。
 言葉は交わしても仁科が作業を終了しない限りは姿勢を動かさない。
 今は仁科の邸の、手入れがされているとは言いがたい庭に座らされている。日中、季節はずれの強い陽光に暖められた枯芝は、体を冷やさない程度に熱を持っていた。夜露が降りるにはまだ早い時間だ。
「友達にアルバイトの事話したら、絶対私に惚れているんだって言い張るので」
「ナンパされて、家連れ込まれて、二人きりで?」
「そう。絵に描かれてるって言ったらいやらしいって」
 友人からその発言が出たときに、酷く違和感があった。
 いやらしい。
 仁科という人物と一番縁遠い言葉である気がした。仁科が枯れきった老人ということではなくて、20代の清潔感をもった青年であることを考慮しても。
 春子には恋人がいたことはない。友人は中学から、早い子は小学生の時から彼氏彼女を作っていた。春子自身が望まずとも、周囲が色めき立ち始めるとどうしても巻き込まれることが多々ある。そのうちに、興味を持たれている時に感じるものが判るようになった。それは好意であれ、悪意であれ、どちらも同じく質量を感じる眼差しだった。
 熱の篭った、湿度の高い、息苦しくなるほどに粘度のある視線。一挙手一投足を絡め取るようなそれは、剥がしても古木に纏わりつく蔓を想像させた。
 仁科からは全く感じない。
 物腰も言葉遣いも柔らかい。作業をしているときも、そうでないときも、丁寧に扱ってもらっていると思う。食事しかり、会話しかり。春子の望むようにしてくれる。
 けれど欲と呼ばれる感情は全く見出せない。
 春子は自分自身が人の感情に聡いほうであると認識している。
 恋愛に対してだけではなく、あらゆることに淡白ではあるけれど、友人と呼ばれる存在も多く、相談事を持ちかけられることもある。
 面倒だから。
 厄介事が面倒で堪らないので極力避ける方法を探していたら、人の感情の振れに鋭くなった。相談にも悩みにも、彼らの年代が覚える雑多の興味にも関心がもてない。しかし自分の意思通りに行動したところで、相手の感情が負に傾いた時の後処理の方が面倒になるため、言葉を合わせるよう振舞う。人に対して聡くなったのは春子自身に害を及ばないようにするための卑怯な媚だと思っている。
 仁科の感情は何にも振れない。まるで空気のように。
 自分の感情が振れずに済むのは、そして正確には不明だが、相手である仁科の感情もまた振れてないかのように思えるのは酷く安堵ができる。この時間は悪くない。

 いやらしいねえ、と仁科は春子の口真似をしながらくつくつと笑う。正確に言えば友人の真似をした春子の真似なのだけれど。
「君達くらい若いと、好いたはれたが一番の関心事だからねえ」
 内容も、その言い様も、実に年寄りじみている。日の陰る縁側に座っているから余計にだ。
「まだ26歳じゃないですか」
「9つも違います。それにね。ハルコちゃんも僕に惚れていないしね」
「そうですね。惚れてはいないです」
「誰にも惚れていないでしょう」
「はい」
「君は本当に枯れているねえ」
 そこがいいんだけどね、と誉めているのだか貶しているのだか判らない。
 自分自身の感情が動きすぎると、人間関係に歪みが起こる。それは春子に益だけではなく、害も与えると思っている。
 人が人といる限り無感情で無利害の関係を築くことは難しい。
 かつて、迷惑な熱視線に晒されたように。今もなお続く友人という名の排他的拘束のように。
 元来の性格も一因としてあるのかもしれないが、何となく感情の幅が狭くなった。
 春子の記憶する限り、大きく心を揺さぶられるという経験が殆どない。
 ただそれを枯れてる言われるのは少しだけ心外だ。
 恋でもなんでも。
 何かに突き動かされたいと思ったことがない訳ではない。
 叫びだしたい、震えたい、全ては思うがままに。熱を燻らせ衝動だけで駆け出したい。そんな気持ちを自分のものにしてみたかった。ただ今まではその機会に恵まれなかっただけだ。
 けれど、仁科がいう枯れている自分を彼が好しとするならば、今後困るかもしれない。
「恋をしたら、アルバイト終了ですか?」
 できることなら避けたい。
 仁科の描く事象になることは、動けない故の倦怠感はあるものの基本は楽、そして高給であり、高校生の身分でなせる仕事としては極めて上等だといえる。
 それにこの静けさに包まれた平穏は、何物にも代えがたい。
「恋したいの?」
 少し驚いたように声を張って、仁科が質問に質問で返す。無意識なのだろうが、先ほどの会話を繰り返すつもりはない。春子が呆れたように嘆息すると、その音にさすがの彼も気がづいたようで、ごめんごめん、と口先だけで謝っている。
「恋に落ちたら、恋してるハルコちゃんを描くからいいよ」
 その返事に春子は少し安堵した。
 クビは免れたか。
 けれど恋をしている自分というものが想像つかない。そして仁科が今描いている、恋をしていない自分、というものも良く判らない。違いは顕著に現れるのだろうか。
 庭の片隅でこおろぎが鳴いている。
 仁科と会ってから、一つ季節が過ぎ去った。
 ひぐらしはもういない。
 虫達の恋の音も変わっていった。
「ねえ、仁科さん。仁科さんは恋をしているんですか?」
 目の前にいる男は恋によって何か変わるのだろうか。
 自分に向けられてないだけで、焦がれる人の前では違う表情をみせるのだろうか。想像しては現実感がなく、幾許の興味を覚えた。
 彼はどことなく世俗から隔絶されている雰囲気を持つ。体温も匂いも感じない。
 誰のものでもなく、どこにも属さず、一人で違う空気を吸っているようだ。そして春子の言葉に何も動かさない。
 こんなに考えが読めない人は初めてだ。
 仁科の思考は薄いヴェールの向こうで、密やかに存在を隠している。
 恋。
 なにか変わるのだろうか。恋をすると。
 声が。
 表情が。
 指先が。
 視線が。
 変化を起こしたりするのだろうか。


「寂しいですが、恋はしていませんね」
 全く寂しさを感じさせない口調に、自然と籠めていた力が抜ける。
 残念だ。
 何かで変わった仁科を、本当に少しだけ、見たいと思った。



 作業を始めたときは茜空だった世界が、薄闇になってきた。
 こんなものかな、と小さく声が聞こえ、筆が置かれる。
「今日は日が落ちすぎたから終了ね。お疲れ様でした」
 ゆるりとイーゼルの脇から顔が見え、漸く彼からの終わりの合図を受ける。春子は座りつづけた色濃い紅の躑躅の下から立ち上がり、硬くなった筋を全身で伸ばす。
「お先に居間に戻りますね」
 春子は後始末をする仁科に声をかけ、庭を大きく回って玄関から室内へ入る。
 仁科の描いた自分の絵は見ない。
 これは仁科からの要望だ。
 シュウサクだからねと言っていたが、シュウサクだから見せないという意味がわからないので、取り合えず見ない。
 素直なのか無関心なのかねえ、と彼が以前呟いていた。
 恋をしていない自分の描かれた絵。
 ───見ないほうがいい。
 仁科の感じている春子というものを、まだ見るべきではないと直感が告げる。
 温度のない仁科の視線が捕らえた自分を。
 感情が薄い自分が仁科に見せた表情を。
 春子の僅かにしか動かない心が、まだ振りたくないのだ、と。


 勝手知ったる仁科邸の居間にある古いソファで、仁科の所有する本を読んでいると、片付けを終えた仁科がお茶を運んでくる。
 作業後は二人ともぼんやりとすることが多い。春子は何も思考することもなくただひたすら呆けているが、仁科は解らない。彼は同じ部屋にいるとは思えないほど、独りの世界に入っていく。
 寒くはないと思っていた屋外だったが、暖かいほうじ茶を飲むと、知れず嘆息してしまう。
 少しは冷えていたようだ。
 仁科の焙じたお茶は絶品だと思いながらも、友人に明日説明する億劫さを感じて怠れた気分でいると珍しく声がかかる。
「ハルコちゃんはいつ頃から恋に落ちたい?」
 次バイト来れる日いつ?という様な軽い口調で尋ねられた。
「はあ。恋はしたいと思ってできるものなのですか?」
 恋する機会などなかった春子には想像がつかない。
「うーん……人それぞれだと思うけどね。周りの人をよく観察したり、積極的に合コンとかいけば、ぼんやり家にいるより恋に落ち易いんじゃないかな」
 ああそういうことかと納得する。
 それよりも彼の口から合コンなどという言葉が出たことに少し驚いた。
「興味ないなあ」
 1度だけ断りきれずに参加してみたが、時間の無駄としか言いようがなかった。見知らぬ者同士の上滑りの会話や、意図の読めない褒め言葉の応酬に馴染めなかった。
「暫くはしないと思います。突発的に好きな人ができない限り」
 突発的の使い方もあっているのか判らない。
「そっか…僕もね、ひとまず恋してないハルコちゃんを描いてたいからさ」
 ああでも落ちたくなったら落ちていいから。遠慮しないで。
 そう、慌てた様に付け足してくる。
 今日は何故だか恋恋恋恋。恋という言葉ばかりを口にしている。
 それなのに二人して、別世界の話のようだ。
 今は本読んだり、絵に描かれたり、だらだらとしていたい。たまに仁科のお茶とおいしいものを味わって。
 そういう風に過ごしていたいと思う。
 たとえ、明日。恋に落ちるのだとしても。
 今は静かに、二人でお茶を。


 春子だけ恋愛の許可を得るのも不平等な気がしたので、仁科にも告げる。
「仁科さんも恋していいですよ。恋したら教えてください。反応を観察させてもらいます」
「なんだか実験みたいだねえ」
 披検体はまるで人事のように遠い目で微笑んだ。



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